わがままを言わせてもらうと、年末の紅白で、津軽海峡冬景色を歌う石川さゆりの背景に、北斎の神奈川沖浪裏が使われていて、「津軽なのに…?神奈川…?」と思ってよく見ていると、津軽からは見えるはずのない富士山は消されており、波しぶきは津軽の雪として利用されており、「こざかしいことをしているわ」と思った、この一点についても、だれかとつながれたら、さいわいです。

わたしたちのかすがい

夜の武蔵野文庫は、すいていた。焼き林檎を食べながら読んだ本の中では、中島義道が怒っていた。破れた「れもんケーキ」のお品書きが、白熱灯の光で透けて、きれいだった。隣の席では、アパレル店員のお姉さん2人が、店の雰囲気やコーヒーには目もくれず、棚卸しやキャンペーンについて真剣に話し合っていた。 新宿のゲイバーでは、平日は研究職だというきれいなお兄さんがお酒をつくってくれて、わたしが「ジャスミン茶で割ってください」と言ったら褒めてくれた。隣の席の、サラリーマン風のおじさんは、店内で流れる小泉今日子の映像に、「キョンキョンは本当にいいわ!」と言って、隣の部下は寝ていた。美しいアンバランスさに触れて、わたしはしあわせだった。 みんな一人ぼっちだし、ほとんどのことが確かじゃない人生のなかで、ひと握りの希望は、世界は美しいということです。この美しい世界のなかで、わたしもあなたも、一人ぼっちですね。その一点のみにおいて、あなたとつながれる。武蔵野文庫、ゲイバー、世界、わたしたちのかすがい。これからも美しくいてね。

KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を観た。お迎えと闘うかぐや姫のようなお話だった。もしもわたしたちにお迎えがきたとして、クボのように拒み闘うことができるのかしら。苦しみや痛みでいっぱいの世界を愛することができるのかしら。自分の物語を肯定することができるのかしら。「I am GOD'S CHILD この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field? こんなもののために生まれたんじゃない」高校生のとき、世界史の先生が鬼束ちひろをこきおろした。「神の子?自分を特別だと思うのなんてやめたほうがいい」そうだろうか。大人になっても思う、わたしの場所は、ここではないどこかなんじゃないかしら、いつか、お迎えがくるんじゃないかしら。先生、先生は、クボのように闘える自信があるんですか。

mekab2017-12-23

欲望は、一番身近な他者。すきだから、近づいたのか、さみしいから、近づいたのか、わからなくなるときはある。すきだから、近づいたのか、性欲から、近づいたのか、わからなくなるときだって、あるんじゃないか。いつだって、理性的でいて、自分のことは自分で決めていたいのに、ふとわれに帰ったとき、欲望にふり回されていたに過ぎないと気づく。欲望は、一番身近な他者。早く、友達になれたらいいのに。今日もなれなくて、むなしく、お正月のように快晴の空をみる。そんなさわやかな顔、しなくてもいいのに、空…

鉄棒のしずくにふたたび出会ったのは、空気人形を観たとき。心をもった空気人形、ペドゥナが、板尾創路の部屋の窓をあけて、物干し竿についたしずくを指でなぞって落としたとき。わたしのなかのうたまるが、5億点!といった。

しずく

わたしのしずくの原風景。 雨の翌日、校庭の鉄棒の下に、つららのように連なって、くっついていた、しずく。小さい鉄棒から大きい鉄棒まで、指でなぞって歩いて、落としていった。わたしがぜんぶ落とすんだから、誰もさわらないでね、とおもった。 喘息の吸入器の、蒸気が上手に吸えなくて、あごからしたたり落ちていった、しずく。拭うティッシュもタオルも見あたらなくて、ただ、小児科の壁の、アンパンマンやしまじろうの絵を目で追った。蒸気が出おわっても、看護婦さんはだれもこなかった。 もっとたくさんしずくの原風景があったような気がする。あとはわすれてしまった。

ラーメンたべたい

女のひとと、性的な関係を結ぶ可能性がないとわかったとたんに、男のひとの態度が変わることはよくある。このとき、女のひとは友達をひとり失ったような気持ちになる。そもそも友達でもなんでもなかったのだという気持ちになる。あのひとにとっては、わたしの、女であるという部分が重要だったのであって、わたしの人格や内面は、性的な関係を結ぶ可能性がないとわかった上では、なくてもよい程度のものであったのだ、とおもう。ああ、むなしい。こんなことなら、男のひとに生まれて、性的な関係のないところで、人格や内面をおもしろがってもらいたかった。友達になりたかった。ああ、この気持ちをなんと言おう。
この気持ちを「ラーメンたべたい」というポップな言葉におとしこんだのが矢野顕子だとおもっています。「男もつらいけど 女もつらいのよ 友達になれたらいいのに」