くやしいことがあって、家路。もし、わたしが、SNSで、痴漢被害やセクハラに関する投稿をしたとして、「おまえにはやらない」「ぶすのくせに」のような返信がきたとしたら、「わたしが歳をとっていても醜くても、女として綺麗か綺麗でないかという土俵に勝手にあげられ勝手に品評されてしまうという意味では、美人と苦しみは変わりません。まあ土俵は土俵であがれないんですけど。」と返そう、という想定を頭の中にぐるぐるとめぐらせることで、くやしさを誤魔化しながら帰宅した、22時。わたしの部屋の、茨木のり子が言う。

女がひとり
頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
油断すればぽたぽた垂れる涙を
水道栓のように きっちり締め
男を許すべきか 怒るべきかについて
思いをめぐらせている
(略)
女たちは長く長く許してきた
あまりにも長く許してきたので
どこの国の女たちも鉛の兵隊しか
生めなくなったのではないか?
(略)
女がひとり
頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
ちっぽけな自分の巣と
蜂の巣をつついたような世界の間を
行ったり来たりしながら
怒るときと許すときのタイミングが
うまく計れないことについて
まったく途方にくれていた
それを教えてくれるのは
物分かりのいい伯母様でも
深遠な本でも
黴の生えた歴史でもない
たったひとつわかっているのは
自分でそれを発見しなければならない
ということだった

アパートの部屋でぼうっとするわたしを、「女がひとり 頬杖をついて」と描いてくれる。涙がじわじわ湧いてくる様を、「油断すればぽたぽた垂れる涙を 水道栓のように きっちり締め」と描いてくれる。わたしの部屋と社会を、「ちっぽけな自分の巣」「蜂の巣をつついたような世界」と描いてくれる。茨木のり子に描いてもらうことで、かみくだいて、うけいれられる、くやしさがある。くやしいことがあった日は、わたしの部屋の、茨木のり子に聞けばいい、毅然とした気持ちを、とりもどせる。