「雨だって風だって何でも着られるの。」

男の子みたいに髪を短く切っているのに、まつげをくるんと持ち上げたくなる日もある。とても大きい胸にいつもぴちぴちのリブのセーターを着る女の人を見るとちょっと引いてしまうのに、自分だって、寒い日に20デニールのタイツを履きたくなる日もある。    わたしはいまだに、自分が女の人であるということを受け入れた上で、どのように女の人らしさを身に着けていくのか、その納得する地点をみつけられずに、くるしいおもいがします。   山口小夜子は言う。「雨だって風だって何でも着られるの。」    ああ、そうか、わたしも、何を着るのか、何を身につけるのか、そんな性や美醜の問題をこえて、ふるさとの、海岸で、潮のにおいがしみたワンピースをたなびかせて、脚のあいだをふきぬけていく風をかんじたい。ただわたしの輪郭をなぞってほしい。    そうだ、わたしはただ、輪郭をなぞってほしいのだ。そう考えると、わたしが受験生のころ、藤田嗣治の墨で描いた細い輪郭線のデッサンを、必死で模写したことにも、必然性がたちあがってくる。わたしが、ネットに溢れる少女たちの映像の輪郭を追いかける作品をつくったことにも、意味がうまれてくる。体の輪郭である皮膚の病気に悩まされつづけていることも、ただの障害ではない。輪郭をなぞることは、そのものの存在を確からしいものにすること。    わたしはただ、わたしの輪郭をなぞってほしい。わたしと世界の境界線である輪郭をなぞってもらうことで、性や美醜をこえた、ただ“わたし”というものを、かんじたいのだ。    どんな髪をしていても、雨の日は、わたしに染みこんでいくしずくをかんじよう。どんな格好をしていても、風の日は、わたしの服や産毛をかすめていく風と、おどるようにまじわろう。 雨も風も、わたしの輪郭をやさしくなぞる。そこからすこしずつ、らくになれる気がする。