いつからいつまでが青春期などと、青春を時間的に定義できるものではない。自分の生き方を模索している間が青春なのである。それは人によって短くもあれば、長くもある。はじめから老成してしまっていて、青春など全く持たない人も、必ずしも珍しくはない。どういうわけか、最近その手の若者がふえているような気がする。肉体は若く、精神は老いぼれた青年である。世間の常識から一歩も外れないようなことばかりをいい、また、そういう身の処し方、生き方しかしようとしない。そういう人の人生は、精神的には墓場まで一直線の人生である。

迷いと惑いが青春の特徴であり特権でもある。それだけに、恥も多く、失敗も多い。恥なしの青春、失敗なしの青春など、青春の名に値しない。自分に忠実に、しかも大胆に生きようと思うほど、恥も失敗もより多くなるのが通例である。迷いと惑いのあげく、生き方の選択に失敗して、ついに失敗したままの人生を送ってしまうなど、ありふれた話だ。若者の前にはあらゆる可能性が開けているなどとよくいわれる。そのとき“あらゆる可能性”には、あらゆる失敗の可能性もまた含まれていることを忘れてはならない。

人生における最大の悔恨は、自分が生きたいように自分の人生を生きれなかったときに生じる。一見いかに成功し、いかに幸せに見えても、それがその人の望んだ人生でなければ、その人は悔恨から逃れることができない。反対に、いかに一見みじめな人生に終わろうと、それが自分の思い通りの選択の結果として招来されたものであれば、満足はできないが、あきらめはつくものである。

立花隆『青春漂流』
毎日、いまに懸かっている、と感じて、不安と希望で破裂しそうであるけれど、破裂しそうである、などと言って、ポロポロ泣いたりしている場合じゃなくって、もっと、そうである、もっと、そうであるように。わたしはお茶のなかで、ジャスミン茶が一番好きなので、ジャスミン茶を飲みます、とりあえず、それははっきりと分かっている。ジャスミン茶を飲んで、踏みしめながら、寝ようと思うのです・・・