mekab2013-06-07

どうしてそう、世界を傍観しようとするのか。どうして世界の当事者として、讃美したり、おもいきり失望したり、し続けられないのか。    “見られる者”は、“見る者”の驕りを必死で睨みつけては、ああ、気づいてないわ、といつもいじけるのです。一人残った夏休みの水泳の補習、わたしの腕と腕を意地悪に掴んで離してくれなかった先生の笑った口元を思い出す。彼にとって彼はあのとき完全に“見る者”であり、わたしは完全に“見られる者”だった。    あの、“見る者”の余裕さを、世界にも向けてるひとがいるのであれば、なめちゃイカン、と思うし、“見る者”になることが大人になることではないと思うし、わたしはわたしにできるかぎりの眼光で、睨んじゃうぞ、と思うわけですが、きっと届かないのよね。         オノほりでいのどこがすきって、絶望しているのに世界に優しいところだよ。 隣人を愛して世界を憎むひとより、隣人を憎んで世界を愛するひとの方が好きだなあって、いつもおもう。