ひとを、“表現することから降りることにしたひと”と“表現することから降りないことにしたひと”に分けるとしたら、その両者の、“おとなになること”は違ったものなんじゃないか。  前者にとっての“おとなになること”論を後者に押しつけたら違うし、後者の“おとなになること”論を前者に求めてもちがうし、つまらないおとなになることが前者ではないし、こどものままでいることが後者ではないし なんだかさいきん、悲しいきもちもおこるけれど