ひとは誰とも分かりあうことはできないので、畢竟、誰でもよいのです。だけどひとりではとても居られないから、誰かを選んで、誰かと居るのです。誰でもよいのに、誰かを選んで、誰かと居るのです。誰でもよいのに、誰かを選んで、誰かと居る、そのなかで、その誰かを、そのひととして、そのひとであるとしか言いようがないものとして、いかに尊重するか、という出発点しか、ふたりの出発点はありえないと思います。