mekab2007-11-05

わたしは、思春期とか反抗期とか(いまもそうなのかもしれない)、そういういかにも人格の形成に関わる時期に、会えもしないひとにこいしていたのがいけなかったのかもしれない。


会えなくなってしまったすきなひとは、会えたころのすきなひととは、ぜんぜんちがう存在をしはじめるのです。会えたころはかんじた、にんげんくささ たいおん こえ ひょうじょう は徐々に消えていくのです。会えなくなってしまったすきなひとは、わたしの頭の中で、人間らしさを無くし、まるでなにかのキャラクターのようになりました。キャラクター化してしまったすきなひとは、わたしの思い通り、理想通りに、わたしの頭の中を占領しました。だって会えなのだから、すきなひとはわたしの好き勝手に膨らんだし、いつまでもかんぺきにかっこよかったのです。人間味を欠いているという以外は、わたしの脳内のあなたは、かんぺきだったのです。


そんな実在のない、肉のない、キャラクターのようなものに、何年もこいをしていました。ともだちがおとこのことかわいらしく青春のこいにおちるなか、わたしはじぶんの脳内の存在に夢中でした。だけどそんなの叶わないじゃないか、無駄だって、やっと気付いて、むりやり嫌いになりました。会えないすきなひとを、嫌いになるのだって簡単です。わたしの想像だけでどうにでもなるのだから。かんぺきにかっこよかったすきなひとは、わたしのなかでどんどんかっこわるくおちぶれていきました


わたしの思春期大半をかけたこいは、わたしの頭の中で絶頂に達して、わたしの頭の中で衰退したのです。リアルな世界に出ることなく、わたしの中で生まれてわたしの中で死んだのです。  すべてを脳内で済ませてきたわたしには、どうやってリアルな人間臭い暖かい肉々しいおとこのひとをすきっておもえばいいか、わからないのです  もうできるわけがないのです