教室の中のヒエラルキーって、制服やなんかで個性が極力抑え込まれた上に、自分に自信がないゆえに人を貶める、または貶められる、少年期特有の残酷さと無知さを持った人々が集まっている、という環境によって生まれているんだ思ってた。環境が変われば自然とそれは消えて、階層を分類する力もなくなるのだろうと。  でも最近はそうでもない気がしてきた。   制服を脱いで、やっと解放されて、すべてがフラットになったにも関わらず、自分たちで階層を作りだそうとする人が、わりといる。   見下すことで安心を得るという常套手段はもちろんだし、面白いこと、冗談を言うために、瞬時にそこに階層を生むという、そんなこと能力がある人しかしちゃいけないよって思うような、高度なことまでそこらの大学生がしたりする。      おばあちゃんになっても、わたしたちは教室で、制服を着させられるはめになるのかもしれない。