女は勝った。とはいえ、男としても必ずしも負けたわけではない。女を勝たせることで、男もまた勝つのである。なぜなら、女は男の作品だからだ。男が「美」を発見し、その前に拝跪することで、女は「強者」として生きることができるからだ。そのかぎりで、男はやはり作者であり、女は作品なのだ。それが谷崎文学における男と女のありようである。それをたんに「マゾヒズム」の一語で片づけることはできない。
谷川渥「文学の皮膚」より

この“作品”になり、さらに自分が“作品”になっていることをしっかりと自覚している女の人が最強なはずなのである    “作品”になることと、自覚していること、ふたつを同時に成すことが可能なのか、それがまだわからない。自覚していないということが、“作品”になる条件である可能性は高いし。
そんなこと言って、ノートがみつからない。こんな時間にずっとノートを探していて、別のノートが見つかって、そこにこの谷川渥という人の言葉が書いてあったために、こんなことになってしまった ノートがみつからない。