祖父 1

 祖父はわたしたち姉妹に、行儀や節句のしつらえを徹底的に仕込んだ。脳梗塞で倒れた祖父の言葉はとても聞き取りにくく、なぜ怒鳴られているのかわからないわたしたちは、「もう一回言って」という表情をし、「きっとこう言ったのだろう」と察した。小学生のころ、妹はけろっとしていたけれど、わたしはいつも泣いていた。
 正月はふたつの神棚の掃除、神札を貼り替え、黄色くなった注連縄を、緑色で新しい、香りいいのに替える。仏壇の前、玄関の前、店の前にお飾りをつけたら、掛け軸を可愛い鶴に替えて、店と、床の間に鏡餅を飾り付ける。元旦の朝、お寺へ行き、暮れのうちにきれいに掃除しておいた墓に縄を飾るまでが仕事。
 正月が明けたら、どんど焼き。前の年の神札や取り外したお飾りをお焚きあげする。どんど焼きでは、お団子も焼かなければいけない。お米の粉で赤、白、緑のお団子をつくり、それを祖父がどこからか切ってきた鹿の角のような大ぶりの枝の、その先に刺してつけ、どんど焼きの炎で焼く。持って帰ったお団子は、夕飯に食べる、お醤油をつけたり、お砂糖をつけたりして、あんまり、おいしくないのだけれど。
 桃の節句は、おひなさま。おひなさまのしつらえをするとき、祖父は大人しかった。しつらえが終わると、その前で姉妹二人並んで写真を撮った。祖父の買ったピンク色のワンピースを着たわたしたち、だらんと座る幼稚園生の妹を、まっすぐ座るのよと正そうとする小学生のわたし、窓から入った光が畳に反射して、まぶしかった、祖父はとなりのリビングのソファから、その様子を見ていた。
 夏はお盆があるから、わたしは毎年、夏休みの後半が憂鬱だった。提灯や砂山、きゅうりとなす、砂山、ちっとも可愛くない、観音様の掛け軸、迎え火と送り火の準備もさることながら、たくさんやって来るお客が、とても嫌だった。宿題をしていると、階段の下から、「降りてきなさい」と祖父の呼ぶ声がする、何度となく。わたしたちは畳に正座し、大人たちからの「大きくなったわね」「お母さんにそっくりね」などという言葉に、いかにも大人しく、はずかしそうに、ほほえんだ。それがとっても、嫌だった。
 祖父の呼ぶ声は、畑からも聞こえた。呼ばれては、菜の花を摘み、いちごの苗をビニールで覆い、うなぎの日は山椒を摘み、お刺身の日は大葉を摘んだ、枝豆を茎から切り落とし、とうもろこし、オクラ、小さな木にのぼってビワをもぎ、じゃがいもを掘って、さといもの葉っぱで雨水をころがした。野菜の感触はうつくしかったけれど、ちっとものどかではなかった、子どもの手には大きすぎる金ばさみはわたしの手にいつも血まめをつくったし、いつ祖父の言葉を聞き損ね、怒鳴られはしないかと、神経はずっとはりつめていた。虫に刺されたかゆみと、土くささ、祖父のながすラジオの音につつまれた、じっとりとした時間だった。
 お客は、冬もやってきた、年の暮の、あいさつに。例の笑みではにかみながら、わたしたちはいそいそと年明けの準備をした。正月にやってくる親戚の、宴会の準備。テーブルとクロス、座布団と、グラスと、取り皿と、箸と。数の子やいくら、なますや昆布巻きの準備をする母の横で、わたしたちは祖父が毎年好んでふるまうおでんの下ごしらえをする。たくさんの八つ頭の皮を剥くのがつらかった、わたしの手は、灰汁でやられた、とてもかゆくて、腫れたけれど、黙って剥いた。
 そしてまた正月がくる。黄色くなった注連縄を、ああ、と見上げた。
 すべてわたしたち姉妹の仕事だった。家にある掛け軸や人形、花瓶や提灯の場所を把握しているのは、父でも母でも大叔母でもなく、わたしたちなのだ。「子どもには触らせもしなかった。孫だから、任せるんだよ」と父は言った。
 朝、祖父の部屋の戸を引くと、ベッドに横たわった祖父を覗き込むようにする白衣の背中があった。振り返ったお医者さんがしずかに「ちょっと出ていなさい」と言うので、ああ、おじいちゃん死んじゃったんだ、と思った。このときのために祖父はわたしをしつけたのかと思うくらいであった、わたしは、すぐ、枕花を買いに家を出ていた。次々やってくるお客にお茶をいれ、その「これがお孫さんか」という視線に、成長した彼の孫としてこたえようと、肩までの黒い髪を、黒いワンピースにたらし、年頃らしいたたずまいで、仕込まれた、例の、大人しい笑みをうかべていた。