愛のきゃらばんとかも読んでいないのでいう権利ないのですが、最近のナンパというやつへどうしても違和感をいだいてしまうのは、わたしのあくまでも個人的な理由としては、こういう記憶を呼び起させられるからかなとおもったのですが、ナンパをモノ扱いとして非難する女の人は、「自分もまた男性を物扱いしていることに気づいていないのだ」という文章を読んで、なるほどー、とおもい、その違和感についてずっと考えていたのですが。   「ナンパをするのは、本当はセックスをしたいからというわけではないのだとおもう。」「じゃあなんでするの?」その、なんでするの?の、答えに当たること。それはたぶん、ナンパをしない人たちも、それぞれの手段で追い求めていることなんだろうと思う。   だけどその、なんでするの?の答えにあたることを求めているということは、恥ずかしいことで、その人がまだ未熟だということだ。大概の人が未熟であるし、未熟だからこそできることもあるので、悪いことではないけれど、未熟なことであるのはたしか。だから人は、その、なんでするの?の答えに当たることを追い求めるにあたっては、自分の未熟さを感じることを避けられないし、未熟さをひとに露呈してしまうことになる。ああわたしはまたこんなことをしてしまっている、未熟ゆえである、みじめである、でもせざるをえないので、します、という葛藤のなかで追い求めることになる。    ところがナンパに関しては、ナンパが「女にモテた」とか「たくさんセックスをした」とか、社会的なステータスをその人に与えてしまう性格なものだから、恥ずかしいことで未熟なことだというのが、露呈するどころか覆い隠されちゃう。さらに、ナンパという手段は、ものすごく他人を巻き込む。未熟であるがゆえの行動に、多数の他人を巻き込んでいる、大人の男の人が、なんか、どうなんだろ、でも、そのさまにも、わたしは何も言えない、だってそこには社会的なステータスがぎらぎらしているから。  覆い隠された未熟さについて「ださい」と言うのを、ステータスで強力に口封じされている違和感。 「芸術だったらなんでもしていいわけ?」と言うひとと同じメカニズムで違和感をかんじているような気がしてきた。にゃんかわたしがまちがってるんだろーな