すきです、つきあおう、などと言って、そこからなにをしてもいい関係がとたんに始まるという契約が、とても不自然におもえてなりません。本当はもっとグラデーションのはずであります。なんだか良いわとおもっている2人がなしくずし的にだんだん近寄っていくほうがよほど自然に感じられます。なしくずしというと不健全なイメージが持たれますが、すきです、つきあおう、などと言ったのをさかいに急にちゅーをしたりセックスしたりしていい関係になることのほうが、ある意味では不健全であるとおもえてなりません。「すきです、つきあおう(今からちゅーしたりセックスしたりしていい関係になってくれますか、くれませんか)」という決断を迫り、「ちゅーしたりセックスしたりしたいかは分からないけど一緒にいるのは楽しいよ」という段階に居ることを許さないのはどういうわけでしょう。ほんとうはその段階こそごくごく自然なものであって、その段階からどこへ転ぶかということは、契約などでなくって、思いやりや尊重のなかで勝手に決まっていくものではないでしょうか。      「そう。わかったよ。じゃあきみはどうしたいの。」「わからない。」自分がどうしたいのかわかりません。不自然である、不健全であるなどと客観視をしつづけて、いつまでたっても主観に落ちることができないまま、自分の欲から目をそむけていますから、もう、わたしはひとりでいようということで、だけどとりあえず天丼が食べたいという欲は自分で認めることができましたので、昨日はしとしと雨の新宿で、ひとりてんやで天丼を食べていたというわけです。てんやで充分です。