からだの弱い子どもは、「わたしはなんにもできない」という無力感を埋めるために、空想のなかでなんでもできる神様になる。世の中で強いとされているものを身につけるのを夢見て耽る子もいるだろうけど、わたしはそうじゃなくて、世の中の強さの価値観をひっくりかえす、弱さの哲学をつくることにエネルギーを注いだ。弱いわたしが、弱いまま頂点に君臨することのできる哲学。破けてしまいそうな薄さこそ、途切れそうな金切り声こそ、異形のものこそ、見るものより見られるものこそ、つまり弱さこそ、なにより美しいのであって、そこには強さを呑みこんでしまうほどの力があるはずだ。「弱さを強さにしろ!」と言った髭の先生が、松岡セイゴウのフラジャイルが、拍車をかけた。だから、たとえば、三島由紀夫はわからなかった。弱いまま強くなる方法があるのに、どうして虚飾する必要があるの?そういえば、わたしは適性検査で、虚飾性の点数がとても低かった。    だけどそんな、弱いものを弱いまま美しいものとして受け入れろなんて、表現としては成立すれど、社会で許容されるはずもなく、わたしの城は崩壊した。壊れる運命の城だった。弱いものを美しいとおもう気持ちは変わらないけど、哲学はやんわり融けて、いまはもうちょっと生きやすい。     なんでもできる神様だった、からだの弱い子どもたち、いったいどんな大人になっただろう。