「好きなバンドよ」
「はい?」
「私も“ザ・スミス”が好き」

この映画を褒めるときに、スミスとか音楽のセンスも良いんだよねとか、サマーのかんじがすごくセンス良くて好きなんだよねとか、あのね、そういう、センスがどうこうとかそういう自意識が先に立っているうちは、恋なぞうまくいくわけないぞ!っていうことがこの映画の教訓なのであって、スミスが良いんだよねとか言ってるお前は、大丈夫か?!ってことですよ。


『シネマハスラー うっぷん晴らしスペシャル』より

自分と同じ、ザ・スミスが好きなサマーにトムは恋をする。そんなトムと同じように、サマーのセンスに惚れる男の子たちに、宇多丸は「大丈夫か?!」と言っていて、とてもおもしろかった。わたしもそう思う。相手に期待しているうちは、相手のことをただそのひととして見ているとは言えないのだとおもう。
だけどザ・スミスを好きな女の子が、男の子の未熟さを利用してザ・スミスを共有することがいやしいことなのならば、女の子は一体どうやって同志を得ればいいのだろう。女の子には同志がいない。サークルクラッシュなんてしちゃう女の子には、いやしさの裏に、「わたしにも同志がほしい」という期待があるように思える。  パシフィックリムの上映会であった「すごい女子率じゃないですか!怪獣やロボットは俺たちのものであって、君たちのものじゃない!」という冗談にキレたのは、きっと、サークルクラッシュなんてせず、「わたしにも同志がほしい」という期待をもおさえ、ザ・スミスを、怪獣をロボットをひとり黙って愛してきた女の子たちだ。同志もなくひとり黙って愛を貫いた日々を否定されたようで、我慢の限界だったんだろうなあとおもった。
茨木のり子が言う。

女たちは本音を折りたたむ
扇を閉じるように
行きどころのない言葉は からだのなかで跋扈跳梁
うらはらなことのみ言い暮らし
祇園の舞妓のように馬鹿づくことだけが愛される
老婆になって 能力のある者だけが
折りたたんだ扇をようやくひらくことを許されるのだ


『王様の耳』より